Indifference

リプレースメント

枯れてしまっている泉

退院した。思考が止まってしまうときがある。何も考えられなくなってしまう。言葉も出づらくなってしまって心が身動きが取れなくなる。そこまででなくても精神の働きが滞って、考えがまとまらなくなって何にも集中できなくなることはしばしばである。

ここには書けないけれど、精神を削るようなできごとが私の周りで何度も起こった。ひとつは、自分にはどうにもできないことだった。少しは落ち着いたかもしれないけれど、なんとか収束を祈るばかりである。ほかに、私の心にもぽっかり穴をあけるようなできごともあった。(数少ない知人の死…お悔やみ申し上げます)とても悲しいことだった。私にできることはなかったのだろうか。一方で私はこうも思う、その人の死は多くの人を悲しませたかもしれないけれど、私がいなくなったとして、同じように悲しむ人がどれだけいるだろうか。親族や治療関係においてはもちろん私を失うことは《損失》であり大文字のネガティブなイベントではあるかもしれないけれど、それがどれだけ人の心に響くだろうか。つまり私の生きている価値はそれだけであって、生き続けることに大きな意味はないことは明らかではないか。それはこうして必然化される。つまり私はクズみたいな存在、他者のじゃまになるだけ、迷惑な存在である。私だって《生》の絶対的な肯定をしたかった。私は他者主体の絶対的な尊厳を尊重したい。ただ私が自分の意志をもって自分が大嫌いなだけだ。ここでもパターナリズムの問題が出てきてしまう。

文章をこうして書くことは、それができるときにはカタルシス効果をもたらして気持ちを楽にしてくれる可能性がある。だからこのブログも存在するということもできるのかもしれないってくらい。なにかを読むことも続けられないときもあるのだけれど。

でも、いま、正直何も書きたくない。語りえぬことについては沈黙せねばならない。(違う)この投稿も無意味な文章ばっかり。

こころが空っぽ。

もちろんこんなブログを書いても誰からも相手にされない。私はキチガイだし、当然かもしれないけれど。

思ったけどこのブログ、とても理系って感じがしないね。文系の概念とかばっかりだしそれもちゃんとした論理じゃなくて空虚な詭弁ばっかり。

特に言いたいことはない。臓器提供する意思はないというくらいはここに書いておくけれど。(それはブログに書くことじゃない)念のためのことも考えて遺言書も用意したし。(他意はありません)

期限は限られている。つよく生きて。未来を信じて。

かつての集中力、そして意欲は、(もしそんなものがあったとすれば、)いったいどこに行ってしまったのだろうか…

すべては自分の気のせいなのでは…?